Novel brainの研究室

物語理論の研究をしています

1.「面白い」の定義

 ◆「面白い」は定義可能なのか?

 

「面白い」ものが作りたい。
クリエイターなら誰しもが願う事柄だ。

では、あなたが作りたい「面白い」とはなにか?

 

 

 

…それが分かったら苦労しない。
…言葉にできないそれを形にするのが創作である云々。
様々な答えが聞こえて来そうな問いである。

 

確かにクリエイターの目指す「面白い」を定義してしまうことにより
作品の質が画一化してしまうリスクはあるだろう。

 

だが、それは定義の仕方が未熟だから起きるリスクだ。
あえて断言するが、「面白い」は定義可能である。

 

また、一流のクリエイターであるためには
「面白い」が定義できていることは必須である。

 

その定義は必ずしもここで定義されたものである必要はない。
しかし、あなたが言う「面白い」とは、つまりなんですか? という問いの答えは必要だ。

 

//////////////////////////////////////////////////////////////////////////

 

◆「面白い」とは感動である

 

最初に結論を言ってしまう。
「面白い」とは「感動」である。

 

なぜその答えにたどり着いたのかを論理的に解説することは難しい。
おそらく本気で取り組んだら心理学や脳科学の話まで持ち出す必要があるような予感がある。

 

しかし、私は学者ではないし、論文が書きたいわけではないので、
プロセスを論理で証明することは棚上げする。

 

根拠は経験則だ。
私が「面白い」と感じたとき、私の心は常に動いていた。
他人と面白かったものの話をしていても、心が動いたことがよく話題にあがった。
だから、「面白い」とは「感動」なのだ。

 

しかし、この「感動」は少々厄介な言葉だ。

どうしても一般語彙として認識されている「感動」は、
カタルシスを伴う感傷的な心の動き」という印象が強い。

 

作中キャラが誰一人不幸にならないラブコメを読み終わった感想として、
「感動した!」というコメントは出づらい。

 

しかし、あなたにとってそれが「面白い」ものであったのなら、
あなたは間違いなく「感動」していたはずだ。

 

なぜなら、「感動」の辞書的な意味は
「ものに深く感じて、心を動かすこと」だからだ。

 

「このキャラ、かわいい!!」
「萌える!!!!」
「こいつ、かっこいい!!」
「この展開、燃える!!!!」

 

これらはすべて「感動」である。

 

読者は常に感動することを望んでいる。
心動かされたいからこそ、人間は物語を手にするのだ。

 

//////////////////////////////////////////////////////////////////////////

 

◆「面白い」は読者の心に与える刺激である

 

「面白い」とは「感動」である、という話をしてきた。
この点に関しては、ほぼ議論の余地はないように思える。

 

人は各々で動かされたい感情の種類がことなるため、
読むジャンルや好む作風が異なるのだ。

 

この定義は、ライトノベルやノベルゲームを離れても通用する。
一般文芸や純文学の領域でさえ、人が物語を手に取るのは「感動」したいからだ。

 

こうした大ジャンルの違いも、
大まかな(あくまで大まかなものだ)感情の種類や動かし方で分類されたものにすぎない。

 

しかし、創作理論として「面白い」を定義しようと思った場合、
「面白い」=「感動」ではまだ足りない。

 

なぜなら、
「この小説をもっと面白くしてください」と
「この小説をもっと感動できるようにしてください」では、
まだどちらも雲を掴むような話という点で大差ないからだ。

 

もう一歩、定義を深める必要がある。
「感動」とは、つまりどうすると起こるのか。

 

これも論理的な証明は避けたい。
「面白い」ものを読んだときの自分の心の反応を注意深く観察した結果出てきた、暫定的な結論だ。

 

「感動」しているときに起こっている反応、それは、
「心になんらかの刺激が与えられ、それが最終的に快感に変わった」
である。

 

…大層な言い回しでなにを当たり前のことを言っているんだ?
という声が聞こえてきそうである。

 

だが、待ってほしい。
「面白い」とはつまり、「読者の心へ与える刺激による反応」である、
ということを前提にして物語を創作している人間がどれだけいる。

 

それを自覚しているとなにがどう変わるのか。
次はその点を説明したい。

 

//////////////////////////////////////////////////////////////////////////

 

◆なぜ「面白い」を定義する必要があるのか

 

先ほども一度話題にしたが、
「この小説をもっと面白くしてください」、
「この小説をもっと感動できるようにしてください」
では、はっきり言ってなにをどうしたものか皆目見当がつかない。

 

しかし、ここに
「面白い=感動=読者の心に与える刺激による反応」
という前提があると、話が変わるのである。

 

「この小説の読者の心に与える刺激をもっと増やしてください」
これなら、いくらか具体的な方法論に結び付きそうなオーダーに見えないだろうか?

 

「読者の心に与える刺激」に関しても、
大ジャンルや小ジャンルが決まっていれば(こんな話をしている時点で決まっていないわけがない)もっと具体的になる。

 

例えば、ライトノベルのラブコメを書いていて、その原稿を編集者(友人でもいい)に見せたとする。

「これじゃあまだ面白いとは言えないな。もっと面白くしてくれ」

 

「面白い」が定義されていないと、

ここから大変な旅が始まってしまう(無事帰還できる者は少ない)。

 

しかし、先ほどの定義に当てはめると、

この編集者(ないし友人)の言葉は次のような意味になる。

 

「このままでは読者の心に与える刺激が足りないな。もっと増やしてくれ」

 

それがライトノベルのラブコメであるならば、
「読者の心に与える刺激」は大概「ヒロインの可愛さ」である。

 

それは、キャラクターメイキングにおけるヒロインの魅力不足かもしれないし、
プロットメイキングにおけるヒロインの魅力を描写する機会不足かもしれない。

 

どちらにしても、「面白い」の定義が明らかであれば、
具体的な解決策を求める建設的な話し合いに発展する可能性は高まる。

 

//////////////////////////////////////////////////////////////////////////

 

・補足説明1

 

心に与える刺激は『最終的に』読者の快感に結びつかなければならない。

 

主人公が挫折したり敗北したりすることで、
読者へ対して『一時的に』フラストレーションを強いることはテクニックの一つである。

 

しかし、フラストレーションのかけかたにも良し悪しや読者個人の好みは存在する。

 

また、大きなフラストレーションを解消しないパターンはあまり見かけないが、
小さなフラストレーションをかけておいて解消し忘れる、というミスはプロでさえも陥るミスである。

 

・補足説明2

 

「快感に変わること」というのが肝で、各々の読者の好きなジャンルや苦手なジャンルが決まる。

 

ホラーが最も分かりやすい。
「恐怖」や「驚き」が快感に結びつく人と、そうでない人がいる。

結び付く人はホラーを楽しむことができて、結び付かない人は楽しむことができない。

 

ブコメも少々特殊で、人気がある一方苦手な人も多い。
扱う感情や刺激が「小っ恥ずかしさ」など「羞恥心」に触れる部分が多いため、
「恥」の感情が苦手な人は快感に結びつかない場合がある。

 

一部の一般文芸や純文学の場合、
直接的な読者の感情刺激よりもやや回りくどい構造を取ることになる。

 

おそらく、それらは「思想の啓蒙」や「人生の意義の発見」などを読者に促す構造を持っている。
純文学の読者などはその新たな価値観を手に入れることに読書の喜びを感じているのだろう。

 

しかし、回りくどくはあっても、これだって読者の心に刺激を与えて快感に変換していることに変わりはなく、
これもまた感動の一形態である。

 

//////////////////////////////////////////////////////////////////////////

 

 

※追記

 

◆感情を刺激するための経路は大きくわけて2種類


「面白い」とは、受け手の感情を刺激し最終的に快感に変わった瞬間に起こる感動である、と定義してきた。

 

では、「どうやって」読者の感情を刺激するのか、その具体的な方法は当然作品によって変わってくる。その方法をどうやって導き出すのかについては、別の章で語っていきたい。

 

しかしその前に、受け手の感情を刺激するためには、その「どうやって」が走る経路、ルートがある。

 

このルートはたった2種類しか存在していない。

 

『共感』か、『理解』かだ。

 

それぞれを解説していこう。

 


◆『共感』というルート

 


『共感』は読んで字のごとく、受け手が共感することで起こる刺激だ。誰に共感するのか。当然、登場人物にである。

 

受け手の共感は多くの場合、主人公を対象に起こるし、作り手もそれを想定している。だが、作品によっては主人公ではなく、ヒロインに強く共感させる意図で作られた作品もある。主人公ではなく、主人公の親友に共感させるような造りもあり得るだろう。

 

だが、どのパターンであっても、まず最初に登場人物の感情が刺激され、変化する。

 

その過程を共感できるように描くことで、登場人物が感じた刺激を受け手も得ることができるのである。

 

恋愛が上手くいったことによる幸福感。大切な人が死んでしまった悲しみ。雪辱を晴らしたときの爽快感や達成感…。

 

色々な感情を、人は共感することで自分のものように感じることができる。

 

これらは別の表現に言い換えると、『登場人物を媒介した刺激』である。

 

『共感』は『登場人物を媒介した刺激』であり、これが1つめのルートである。

 


◆『理解』というルート

 

 

では『理解』とはなにか。

 

これは『新しいものの理解』と言った方が多少分かりやすくなるのだが、あまり厳密な言い方でないためここではとりあえず『理解』と言わせてもらう。

 

『理解』は『共感』の逆であると考えると分かりやすい。つまり、『登場人物を媒介しない刺激』だ。

 

『理解』とは、作品から受け手へ、直接与えられる刺激である。

 

もっと分かりやすい例は「伏線の回収」である。

 

スリードや伏線を意図的に忘れさせる演出で、受け手の意識の外へ追いやった情報の数々に、重要な場面で異なる解釈や本当の意味を教える。

 

「あれは、そういうことだったのか!」
「やられた!! 全然気づかなかった!!」

 

とあなたは思うはずである。


もしかすると、黒幕から新事実を聞かされた主人公もあなたと同じことを感じているかもしれない。

しかし、あなたは主人公に共感しているわけではない。

 

あなた自身が、作り手の仕掛けたトリックに見事にはまってしまったことに衝撃を受けているのである。

 

ものの見方や価値観をぐるんと一回転させられるのは、人間にとって快感である。理由は分からない。とにかく、新しいものを『理解』するのは人間にとって快感なのだ。

 

「伏線の回収」に関しては、『車輪の国』をプレイするのが理解の助けになるだろう。

 

『理解』で作り出される面白さは伏線の回収だけではない。

 

例えば「知識欲を満たすこと」。これは通常では知りえない知識、例えば専門性の高い職業の知識や体験の情報などは受け手を感動させることができる。他にも、本来は理解の難しいことがらをとても簡潔で分かりやすく伝えることでも達成できるだろう。

 

この手法に関しては、『あの晴れわたる空より高く』が優れている。

 

見たことも聞いたこともない斬新なキャラクター、世界観でも刺激可能だ。

 

例えば、映画『ダークナイト』でバットマンの敵として登場するジョーカーはこの例に含まれるだろう。

 

文学的なまったく新しい表現、新しい価値観の発見も『理解』というルートで形成される『面白さ』のひとつだ。

 


◆『共感』と『理解』の合わせ技

 


『共感』と『理解』は1つの作品にどちらかしか使えないというわけではない。

 

というよりも、厳密なことを言えば、片方だけで作品を成立させることはむしろ不可能に近い。

 

『共感』を主な面白さとして設定して作られたライトノベルであっても、斬新な設定や伏線の回収などで『理解』による面白さを混ぜていくことはできる。

 

『理解』を狙って作られた純文学作品であったとしても、そこに登場人物がいる以上『共感』がゼロということも考えづらい。

 

これらは特別意識しなくても、人間が経験や感覚に基づいて創作していれば、自然と発生しているものである。

 

だが、あえて意識、自覚的になることには大きな意味がある。

 

名作として十年、二十年と語り継がれていくような作品には、多くの場合、『共感』と『理解』を「同時に刺激する決定的な1シーン」がある。

 

疑問に思ったのであれば、ぜひ名作の名シーンに存在している、「人間を感動させる刺激」と「その経路」を分析してみてほしい。

 

きっと、そこには驚くべき仕掛けが潜んでいるはずである。

 

 

//////////////////////////////////////////////////////////////////////////

◆まとめ

 

「面白い」=「心になんらかの刺激が与えられ、それが最終的に快感に変わること」

 

 

(ゴシカン2号)